太平洋戦争中、沖縄から九州へ向かう子どもたちを乗せた船「対馬丸」が、アメリカ軍の攻撃で沈没してから2024年8月22日で80年を迎えました。犠牲になったのはおよそ1500人。沖縄県那覇市であった慰霊祭には、生存者や遺族らが参列し、平和を願いました。
学童疎開で乗船し、命失う
対馬丸は、1944年8月21日、長崎に向けて那覇を出港。翌22日夜、鹿児島県トカラ列島の悪石島沖で、アメリカ海軍の潜水艦ボーフィン号の攻撃を受けて、沈没しました。
船には当時、敵の攻撃に備えて安全な場所に避難する「疎開」のため、学童や教員をはじめ1788人が乗っていたとされています。このうち学童784人を含む、15歳以下の子ども約1000人の幼い命が失われました。旧日本軍は生存者や遺族に口止めを強いたので、被害の全容については今もまだ分かっていません。
那覇市にある慰霊碑「小桜の塔」前で営まれた慰霊祭には、生存者や遺族ら約400人が参列。録音した汽笛の音が響く中で、黙とうをささげました。4歳で対馬丸に乗り、家族9人を失った対馬丸記念会の高良政勝理事長(84)=那覇市=は、ロシアによるウクライナ侵攻など、現在も各地で続く紛争を念頭に置きながら、「世界から報復の連鎖が断ち切られることを願い、平和の尊さを伝えていきたい」と話しました。
語り部の生存者は減少
語り部の生存者が年々、減っていく中で、事件の悲劇を、いかに次の世代に引き継いでいくかも課題になっています。対馬丸記念館(那覇市)は、この痛ましいできごとを広く発信するために2004年に開館しました。
館長の平良次子さん(62)の母・啓子さんは9歳のとき、家族ら6人で対馬丸に乗船。沈没後、祖母と兄、いとこが亡くなりました。啓子さんは2023年7月、88歳で死去。2024年4月に館長となった次子さんは「なぜ危険を冒してまで疎開をしなくてはならなかったのか。止めるすべはなかったのか。私たちは事件を体験していないけれど、証言を聞き集めたり、記録を読んだりすることで、単なる悲劇としてではなく、広い視野からとらえて、伝えていきたい」と力を込めます。
「歴史から学んでほしい」
政府は、海に沈んだ対馬丸の船体の撮影や、遺品の収集を進めるため、2025年度の予算に約1億円を盛り込む方針です。一方で、沖縄県の調べでは、太平洋戦争中、対馬丸と同じように、沖縄県に関係した民間人を乗せていながらアメリカ軍の攻撃で沈没した船は26隻にのぼります。
次子さんは「同じ事を繰り返さないために、いま何が起こっているかに気づく感覚や、歴史から学んで、これからどうすべきかを考える力が今後は必要だと思います」と話しています。
この記事は「中日こどもウイークリー」で2024年9月14日に掲載された記事を転載しています。